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戸籍

私の担当は戸籍だ。
戸籍は、大雑把に単純化して謂えば単なる名簿にすぎない訳だが、この社会では何故か独特の取り扱いとなっている。
いまや少数となった至極左へ傾いたパーティの人々にとっては「天皇制」と「戸籍」は永久に批判の対象なのだ。
戸籍で門地を封じ込めてきた近代国家「日本」の欠点をあげつらう学者群もある。
そういう人は「明治維新」に疑問を抱く人たちで、「士農工商+その他」が頭の隅にへばりついている輩だ。

かくいう私も戸籍にはいささかの抵抗感を持っている。
いや性格にいうならば、戸籍制度の運用や狡猾な利用方法に疑念と嫌悪を感じているわけだ。
だから私は競走馬の血統表がごとく生身の「人間」を収めようとしている戸籍のあり方には、無理矛盾をいつも感じている。
ソーシャルIDの是非が問われている現在にあってOECD8原則にも対応できていないこの社会は、あの大震災で起こり得た大混乱のことを想像さえしていない。
これは明治年間からの新「士農工商」の成果であり、特異な国民性の利得であるとの観測を信じている為政者が大勢いるわけだから、この社会は東日本大震災のボディブローが効き始めてくるあたりからおかしくなっていくのだろうと思う。
菅首相おろしなんて、まったく意を得ていない政治アトラクションなのであり、大衆は反感こそはすれ受け容れることはないだろう。
・・・述するまでもないか・・・
ただひたすら怖いことは、労働者間の差別や生命を軽んじる風潮がひとつのシステムのように不断なく続いていこうとしていることだ。
ここでは波風が立たないような巧妙なしかけがまだ生きながらえている。
・・・堤防や防災庁舎よりも堅牢かつ暗黙裏に・・・
当然このシステムの前では都合の悪い戸籍を隠して生きていくことは困難であり救済される機会ははなはだ少なくなっている。
嘆いている人を目にしないのは、ひた隠しに隠すという(ひた隠しに隠さなければいけない)行動様式が長期をかけて確立してしまっているからだ。
本来生身の人間はもっと自由でいいはずであるし、天地がひっくり返るような主張をしても良いわけだ。ただし、互いの了解が必要なわけで、その範囲や許容において人は自由空間を得ることができる。
いまの社会のなかでは、戸籍は生身の人間が当然行っていいこの自由空間づくりを阻む性質をもってしまっている。
もう誰も疑問を抱かずに手続きごとの定番アイテムのように戸籍を用いるわけだ。
パスポートの更新時に戸籍を用いるなんてそもそも間違いであると私の周りでは誰も主張しない。
公務として戸籍に携わるわけだけれど、戸籍制度の功罪をもっと深く考えていかなければならないと思っている。
すべての人が、平穏に過ごしているわけではない。
大震災があってこんなに痛手を負っているのに気づかないとは、自由空間が日本列島から蒸発していくからなのだろうか。
差別がないという「自由」を得る行動を起こさなければ、省エネも節電も防疫も、そして質素な生活さえ実現できないということだ。
いささか飛躍的な論の展開と訝しげに思う人もいるだろうけれど、私はストライクゾーンに投げ込んでいるつもり。
戸籍を悪用する社会システムこそ断じて不健全。
有事のさなか、どんどん私たちは荒野のほうに駆られている。

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