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守るだけの壁

実の子を殺めた父親。
父親の行動は教育現場の想定をこえるものだったのだろうか。
もしもで仮想しよう。
この父親に私が窓口になって対応していたらどうであったろう。
私の性格ではたぶんその場で刃傷沙汰に近いことになっていると想像できる。
引かない輩にはこっちが引くのではなく、私は押すにスイッチを入れるからだ。
押して押して相手が諦めるまで自らを投げ打ってかかるしかない。
ダメなものはダメなのだから。
この一点を崩すまい(壁を崩すまい)と私は固執する。
父親の恫喝が凄まじいものだろうが、私はできるかぎり壁になり屈してはいけないのだ。
つまり相手の暴力に遭って傷つくことになるかもしれない。
失職以上の痛手も想像できる。
それでもあくまでも相手を傷つけてはならない。
父親を対して辟易するほどの壁になりきることがすべて。
傍の者には当事者が傷つかないように速やかに警察を呼んでほしい。
警察に父親の身柄を確保してもらい、その場を収めることだけに注力すべきなのだ。
このケースでは残念ながら警察を介さない解決はたぶんない。
その場をやり過ごすだけになってしまうのだが、手段はこれだけだ。
では、野田市の人たちの実際のプロセスはどうだったのだろう。
上級上席が「いいから」でそれまでの抵抗はしまいなのか。
そうではないだろう。
壁になりきれない公務員ではルールは機能しないし、想定外にも対応できるはずがない。
ダメなものはダメと決めていたものの、この父親のケースは例外としてしまったではないか。
大人たちは決めたことを守れないのだ。
野田市の人たちもこの父親も母親も。
決めたことを守れないのだから、命は晒されていたのに等しい。
結果として子の告白は完全に踏み躙られてしまった。
私たちは尊い命の代償により子が学校に提出したアンケート用紙の筆致を報道で接することになったわけだが、大人ならどう読み解くのだろう。
そこには小学生が書いてはいけないことをつづっているではないか。
大人ならほぼ解する平易な表現で痛切なメッセージと読み取れる。
父親のことも母親のこともこの子は心底頼りにしていなかったと想像できるではないか。
子の権利を守れなかった責任は野田市の人たちはもちろん訳のわからないアベノミクスに染まった社会にも当然ある。
いまの政治がいかに年端もいかない人たちを大切にしていないのか、その証明のひとつになってしまった真実。
本音では弱い者に寄り添おうとしない形式社会の醜いフォーマットが浮き彫りになった事件である。
大人なら危急に際して壁になる勇気を秘めておく。
それぞれの壁を持ち寄れば、防ぐことだって必ずできる。
そして年相応の壁の築き方というものが誰にもある。
仮想では終われない。
今回のことで、守るだけの壁をさらに自己に求めたいと思うのだ。


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