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聖地

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人は誰でもかけがえのないものを持っている。

そのひとつが「聖地」なのだろう。

先日の夏旅で湘南海岸から伊豆半島を巡ったが、そこでも「聖地巡礼」の人の群れに遭遇した。

田舎者の目には江ノ電「鎌倉高校前駅」の混みようは異様でしかなかった。

地元住民の迷惑は相当なものだと思う。

アニメ作品で有名になったそうだが、彼らはその聖地で何を見ているのか。

その聖地で自撮りし即SNSにアップするためだけなのか。

自分たちが住民の歩行やクルマの運行に障っているという意識がまるでないように窺える。

ただ、こういう見方もできる。

聖地巡礼の彼ら(大多数は支那人系旅行者)の情熱は比類ないものだと。

日本人はここまで情熱(的)ではない。

彼らは多分それぞれの聖地を求めて世界中に出没しているはずだ。

そのエネルギーを想像するにこれはただごとではない気がするのだ。

かの大陸にも夥しい数の「聖地」があるはずなのに、なぜ「鎌倉高校前駅」それも踏切。

アニメ作品のなかの世界がこれほどまでに人を惹きつけ魅了するということは ... 。

実際の「鎌倉高校前駅」付近も、神奈川県もこの国も「よい世界」に映るということだ。

アニメ作品仕様の美化だけではなく、この国は「よい世界」を映し出す要素を持ち合わせているということなのだろう。

平凡で日常的なごく自然の景色や風景のなかに「聖地」は宿っているのである。

聖地巡礼は「迷惑行為」とも言えるレベルになりつつある。

多分今日もトラブルは絶えないだろう。

巡礼者と住民が「聖地」を良好に共有する術をどのように見い出していくのか。

聖地巡礼が観光の一環である以上「迷惑行為」になってしまわないように考えていかなければならない。

 

さて、自分の聖地巡礼とはどうなのか。

私が聖地と思い込んで訪れる場所では、ほぼ他の人は皆無か少数。

人気がない、という表現が正しいのか。ひとけはない。人など長滞在しない。

だから一層のこと、心の奥に灼きつくのである。

私はひととき「聖地」を抱きしめそして抱きしめられて濃密な時間を過ごすことができている。

ここに来れて良かったと心が叫び体も熱くなる。

傍目にはきっと奇妙なのだろうが、監視カメラもないし誰にも見られていない。

神仏とだけの邂逅なのだ、と信じ込んで疑わない。

ただ未だに達していないことがある。

私の聖地は私のなかにしか存在しないという独占欲とその傲慢を拭えずに今を生き続けていること。

ほんとうに残念なのだが、私が聖地巡礼するときは何かと傲慢なのだ。

私の傲慢と巡礼者(支那人系旅行者)の傲慢と、さして違いはあるのだろうか。

これからも「迷惑行為」とならないように一層注意しよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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